しかし、現実にはそんな“チャンス”を生かし切っていない人がほとんどなのです。誰でも「うらやましいな」と思うことはあります。そして「あんなふうになれたらいいな」とも思います。しかしながら、だからといって、「よーし、私も…」ということにはなかなかならないものです。もったいないことだな、と思います。なぜこんなことになってしまうのでしょうか? それはおそらく本当に「うらやましいな」と思っていないからではないでしょうか? 確かに一瞬は「うらやましい」と思うかもしれませんが、すぐに冷静になって「まっ、いいか」と現実を肯定してしまってはいませんか? 頑張るよりも、その方が楽だからです。「ま、いいか。なんとかなっているし……」。今、そんな風潮が蔓延しています。いかがなものか?と思います。
<製造年月日の表示が消費期限や賞味期限に変わったことの弊害を指摘する専門家もいる。かつては、日にちがたった食品のにおいをかいだり、味見をする光景はどこの家でも見られたものだ。今や食べられるかどうかの判断をすべて作り手にゆだねてしまった。五感の衰えは、本物とニセ物を見分ける力の低下につながっている。>
このコラムを読んだとき、私は音楽にも言えていると思いました。いや“食べ物”を“歌”に変えると、それだけで十分に通用してしまうと怖くなってしまいました。すなわち、いい歌か否かの判断を、私たち音楽ファンはすべてレコード会社などの送り手にゆだねてしまったのです。これは具体的にどういうことかというと、新しく生まれた歌を、自分で聴いて、心で判断していないということです。本来、歌のあるべき姿は、ユーザーに聴いてもらって、いいか否か判断してもらうことです。ところが現実は、ユーザーが自分から積極的に聴いて、「これはいい歌だ」と自分で判断することはあまりない、ということです。では、どうしているのか、というと、テレビを通して大量に流される歌がいい、と考えているということです。
不興を買うとは、目上の人の機嫌を損ねることです。これは実際にあったことです。
私は、とあるプロダクションの社長さんと会食をして、その後、2次会でホテルのバーで飲むことになりました。社長のAさんとは1ヵ月に1度は飲んで情報を交換する仲ですが、その日は忘年会もかねていたので、Aさんの右腕ともいうべき部長のB君も呼ぼうということになりました。B君は某有名アーティストのマネージャーを務める敏腕スタッフとして一目置かれた存在で、Aさんも内心では自分の“後継者”と認めているなかなかの人物です。
B君は気づかいの達人でそつがありません。お酒がなくなるとさっと手配してくれるし、その気くばりはこちらを気分良くさせてくれます。という訳で、私もB君を評価しているというわけですが、その日は、なぜか好事魔多し、でした。
最近、私は“携帯電話の死角”に入ってしまい、義理を欠いてしまうことになりました。あるアーティストのライブに行って、楽屋での軽い打ち上げが終わったのが午後9時半頃のこと。それから近くに場所を移してアーティストをまじえてスタッフの本打ち上げが予定されていました。私はその本打ち上げに招待されていたので、時間をつぶそうと思って、一緒に行った友人と近くの飲み屋で時間をつぶすことにしました。当然のことながら、「程よいときに電話をくれる」という約束を交して、私たちは、とある焼き鳥屋さんへと行ったのです。なぜそこを選んだのかというと、近場で、なおかつ一階にあったからです。地下の店に入ってしまうと携帯がつながらないことがあるので、それを避けて安全パイを取った、という訳です。


