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エレックレコードは青春時代の“学校”そのものでした! 

 エレックレコードは青春時代の私にとって“学校”そのものでした。
 1971年秋、フォーク雑誌『新譜ジャーナル』の塚原稔編集長の推薦で私は、ラジオ関東(現在のラジオ日本)の<ディスカバー・ヤング>という番組のレポーター・オーディション部門に出演し100点満点のA級ライセンスを獲得しました。音楽評論家への登竜門突破でした。ケメ(佐藤公彦)、古井戸、生田敬太郎もこの番組でライセンスを取りプロになりました。この番組の“審査員”のメインだったのが当時エレックレコード専務取締役で吉田拓郎、泉谷しげる、古井戸、ケメ、生田敬太郎のプロデューサーだった浅沼勇さんでした。その浅沼さんに番組終了後「今度エレックレコードに遊びにおいでよ」と誘われたのです。こうして私はエレックレコードに出入りするようになりました。
 当時のエレックレコードは“マイナーレコード”、今でいう“インディーズレコード”の新興勢力でした。ひと足早く立ち上げたURCレコードをマイナーレコードのパイオニアとするならば、エレックレコードは新しい時代の旗手でした。70年安保を境にして、眼(意識)が外から内へ向いた結果、60年代の関西フォーク的プロテスト・フォークとはひと味違った、70年代の青春フォークともいうべきメッセージ・フォークが誕生しました。関西フォークの雄・岡林信康は「私たちの望むものは」と歌いましたが、青春フォークの旗手・吉田拓郎は「私は今日まで生きてみました」と歌いました。つまり“私たちの歌”から“私の歌”へという流れの中で、新しいフォーク・ムーブメントを作り生み出していこうとしていたニュー・ウェイブがエレックレコードだったのです。
 エレックレコードで、拓郎、泉谷、古井戸、ケメなどと知り合い、切磋琢磨することで私は自分を磨いていきました。アーティストと評論家という付き合いではありましたが、いい歌を作ってたくさんの人たちに広めたい、という強い思いは同じでした。程なくエレックレコードに海援隊、佐渡山豊、北炭生、竜とかおる、とみたいちろう……後に山崎ハコが加わりましたが、私はエレックレコードの“客分扱い”でしたので、彼らとも苦楽を共にすることになりました。いや、アーティストたちだけではありませんでした。スタッフ共、お互いの思いは共有していました。私たちはとにかくエレックレコードから本当の意味での“若者の歌”を生み出して全国の若者たちに届けたいと願っていたのです。その意味では、アーティスト、スタッフ、そして私のようなエレックのシンパは共に“同志”だった、と言っていいでしょう。その頃、フォークという新しい若者の歌を何とかしたいという共通の夢を持っていた若者たちが集まってきていたのがエレックレコードでした。紛れもなくエレックレコードはそんな若者たちにとっての“学校”だったのです。そんな“学校”の至宝ともいうべき財産(オリジナル・アルバム)が復刻されることは望外の喜びです。今のJポップの母ともいうべきエレックレコードの“生徒”であったことを私は誇りに思っています。
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category: 俺が言う!

2008/12/08 Mon. 15:49 [edit]   TB: 0 | CM: 0

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