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〈歌の品格〉を問う? 

 「国家の品格」「女性の品格」が問われるように<歌の品格>も問われてしかるべきだ、と私は思います。というのも、最近の歌を聴いていると、「これが歌なのか?」と感じてしまうからです。
 やたら饒舌ではあるが何のリアリティーも感じさせない言葉の羅列でしかない詞、リズムとサウンドばかりが強調されていて心の琴線に響くことのないわかりにくいメロディー、日本語の本来あるべき美しい発音を無視した味気ないボーカル。なんともはや嘆かわしいかぎりです。
 1970年代初頭、シンガー・ソングライターが出現してミュージック・シーンに革命を起こしました。ビートルズやボブ・ディランに触発された若者たちは、エレキ・ギターやフォーク・ギターを持って、自分の想いのたけを歌に託しました。こうして生まれたのがフォークでありロックでした。この時代、歌は歌であって、実は歌ではなかったのです。どういうことかというと、スタイルはあくまで歌だが、それを超えてしまう“何か”があった、ということ。換言すれば、歌は己の自己表現の一手段だったということです。かつてフォーク&ニューミュージック、ロックの時代は、歌とはそういうものでした。歌にアーティストの生きざまそのものが反映され、聴き手は歌を聴いてアーティストの“生きざま”に共感を覚えたのです。そんな時代に作られた歌は現実を超えていました。歌が私たちの現実を超えていたからこそ、歌に内的リアリティーを感じ共感を覚えたのです。
 吉田拓郎、井上陽水、谷村新司、南こうせつ、小田和正、さだまさし、松山千春、長渕剛などの歌には、燃えたぎるような<熱い想い>が凝縮されていました。矢沢永吉、浜田省吾、佐野元春などロックの良き時代の歌とて同じ。ところが年月は流れ、歌そのものが変わってしまいました。一口に言うなら、たかが歌に成り下がってしまったのです。拓郎、陽水など、40年程前に彼らの歌に初めて触れたときのあの<衝撃>を、私は今でも決して忘れてはいない。だが、あのときの<衝撃>が今のアーティストたちの歌には感じられないのです。
 CDが今や握手券のグッズと化してしまっている現状において、もはや歌は本来あるべき歌とは言えない。グッズ化してしまった歌に、ビートルズやディランに触発されて、日本語による<日本のフォーク&ロック>を作ろうと志を高く掲げたあの歌の革命は、まさしく<日本の歌>に<品格>を求める挑戦だったのです。ひとときは<歌の品格>が確立されたこともあったが、今や、あの革命は幻だったのか?と問わざるをえないのは淋しいかぎりです。
 それにしても、どうしてこんなことになってしまったのか? それぞれが一度真剣に考えてみる必要があるのではないでしょうか? 昔の名前で出ています、ではなく、心のぜい肉を落としてアーティストも、今の気持ちを素直に歌って欲しい、と私は思う。頑張って歌っていて、なおかつ現役の第一線で活動していることこそが、アーティストにとって、私たちに対する最大のメッセージなのです。40年前のあの高い〈志〉を掲げ、歌に〈品格〉を求めた私たちの〈歌のルネッサンス〉、その炎を燃やし続ける歌を求めているのは私だけではないでしょう。だからこそ今、私はあえて〈歌の品格〉を問いたいのです。
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category: 俺が言う!

2012/03/29 Thu. 14:11 [edit]   TB: -- | CM: --

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