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尾崎紀世彦の「また逢う日まで」は1970年代という新しい時代の“ファンファーレ”だったのです! 

 「また逢う日まで」(1971年3月5日発売)の大ヒットで知られる歌手の尾崎紀世彦さんが5月31日午前0時5分、肝臓がんのため東京都港区の病院で亡くなりました。享年69歳でした。
 尾崎さんのダイナミックでスケールの大きい歌い方は当時から評判でした。また、その日本人離れした歌唱法を生かす「また逢う日まで」という曲と出合ったことが大きかったと思います。筒美京平さんのメロディーも素晴らしかったが、阿久悠さんが書いた、男と女が納得して別れるという詞が尾崎さんのドライな歌い方にぴたりとはまったのだと思います。
 「また逢う日まで」は、阿久さんが“時代のマニフェスト・ソング”として書かれました。1970年代の男と女のあるべき姿をこの歌に託したんです。この歌は男と女の別れをテーマにしていましたが、それまでの“別れの歌”は、男が女を捨てて行くという暗いイメージでした。つまり、悪い男がいて、未練たらたらの女がいる、という演歌の定番でした。ところが、阿久さんはそんな暗いイメージを見事なまでに突き破ったのです。別れにあたっては、どちらか一方が悪いのではない。男も女も対等に話し合いをして別れを決めて、それぞれが納得をして、お互いが前向きに新しい明日に向かって旅立っていくもの、というまったく新しい価値観を阿久さんは提唱したのです。その意味では、別れをネガティブなものからポジティブなものに百八十度イメージを変えたのです。当時20歳の私は「また逢う日まで」を口ずさみながら、自分自身の別れをポジティブに乗り切ったものです。その点においては、「また逢う日まで」には時代を変える鋭いメッセージがあったのです。だからこそ、この歌を歌えるのは、ちまちましたせこい男じゃダメだったのです。ダイナミックな歌唱で堂々と、明日に向かって歌いあげるようなボーカリストが必要とされていたのです。それに尾崎さんは見事にこたえたのです。彼がいなかったら、「また逢う日まで」の大ヒットはなかった、と私は確信しています。
 この歌が流行っていた71年、私は20歳、もちろん学生でした。ごたぶんにもれず恋もしていました。当然のことながら、恋に別れはつきものですが、この歌が私の“恋愛の指南書”になっていた、ということは事実です。当時、男と女の別れは今ほどドライではありませんでした。どうしてもネガティブになってしまいがちでした。ところが、この歌の主人公たちは、別れを決めた後、ポジティブでした。2人で別れを決めて納得した以上は、「ふたりでドアをしめて ふたりで名前消して」、じゃあね、とばかりに手を振って、それぞれの道を明るく歩き始めます。1970年代という新しい時代の、男と女の別れ方はこうあるべきだ、という形を、阿久さんは私たちに示してくれたのです。この歌は別れ歌ですが、あくまでも明るくポジティブでなければならない。そんな歌い方ができるのは、当時、尾崎紀世彦さんしかいなかったのでしょう。流行歌という地平に、尾崎さんは「また逢う日まで」というまったく新しい世界を確立したのです。同じ頃、吉田拓郎さんが登場してフォークソングという新しい若者の歌を作り始めましたが、「また逢う日まで」は紛れもなく、もうひとつの新しい若者の歌だったのです。「結婚しようよ」と「また逢う日まで」は共に1970年代という新しい時代の〈ファンファーレ〉だったのです。尾崎紀世彦さんのご冥福をお祈りします。
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category: 俺が言う!

2012/06/29 Fri. 10:26 [edit]   TB: -- | CM: --

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