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来生たかおは不滅のメロディーメーカーです! 

来生たかおの40周年セルフカバー・アルバム「夢のあとさき」を聴いて、改めて思うことは、来生は希有の“メロディーメーカー”だということです。しかし、これは一朝一夕になったものではありません。
 話は45年程前に遡ります。井上陽水のバックでピアノを弾きながら来生はいつも思っていました。
「ぼくだったら、ここのメロディーはこう直すのに……」と。
 1972年3月、「人生が二度あれば」でデビューした陽水は、同年5月にファースト・アルバム「断絶」を発表、一部から熱い支持を受けていました。来生が陽水と知り合ったのはその1年程前のこと、渋谷のフォーク喫茶“青い森”でした。泉谷しげる、古井戸、RCサクセションといった面々に混じって、来生も“ビコーズ”というロック・バンドで出演していました。
「たまたまゲストで出演していたのが陽水さんでした。それがきっかけで、陽水さんのデモ・テープ作りを手伝ったり、バックを受けもつようになったんです」
来生は50年11月6日に東京都大田区に生まれました。高2の時にビートルズを聴いてから音楽に目覚め、それからはビートルズ一辺倒でした。だが、同じビートルズ狂ではあっても、来生と陽水は曲の作り方が微妙に異なっていました。
「陽水さんは、もろビートルズじゃなくて、日本人的な感性で受けとめて、マイナーでシンプルな曲作りですよね。ぼくはどっちかというと、凝った曲作りがしたかったんです。ひとひねりした面白さみたいなね」
だからこそ、陽水のバックでピアノを弾きながら、来生は「ぼくだったら……」と感じていたのです。それから1年後、陽水は「夢の中へ」「心もよう」を連続ヒットさせ、アルバム「氷の世界」は前代未聞のミリオンセラーとなり、名実共にスーパースターに成長。そんな陽水をはた目に見ながら、来生は曲作りに没頭していました。作曲には絶対の自信がありました。だから、「作曲で道を切り開いて、チャンスがあったら自分で歌いたい」と思っていた、と言います。やがてそれが現実となりました。75年に「酔いどれ天使のポルカ」が亀淵友香によってレコード化され作曲家としてデビュー。そして翌76年、「浅い夢」でシンガー・ソングライターとしてもデビューすることになるからです。
77年、新鮮でポップなメロディーラインを買われて、しばたはつみに書いた「マイ・ラグジュアリー・ナイト」がヒット。これを機に“作曲家”として評価され、たくさんの歌手に曲を提供し、「セーラー服と機関銃/薬師丸ひろ子」「シルエット・ロマンス/大橋純子」「セカンド・ラブ/中森明菜」などが大ヒットして作曲家としての地位を確立しました。
 早いもので、それからもう35年という年月が流れてしまいましたが、来生メロディーは今なおたくさんのアーティストにカバーされ続けています。その意味では、来生たかおはまさに不滅のメロディーメーカーです。


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2016/06/13 Mon. 10:59 [edit]   TB: -- | CM: --

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